金沢日和 | ホテルに泊まるといふこと

林俊介がホテルの真髄に迫る極上のエッセイ。

第3回

長野 軽井沢 星のや軽井沢

著者/林俊介(2006年6月筆) 撮影/藤間信行
長野 軽井沢 星のや軽井沢

 雨が降り続いていた。
 途中の峠には霧が深く立ちこめ、浅間の山々を瞬時も見ることがかなわなかった。
 金沢から車でおよそ4時間。一人で運転するにはやや長い距離だが、私はその時間を十分に楽しんだ。イルムスで買ったスエディッシュ音楽のCDを大音量でかけ、音楽に飽きたら、自分の行く末についてあれこれと考え事をした。

 
長野 軽井沢 星のや軽井沢
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 私が生まれた当時、日本人はことごとく貧しかった。おかしなことだが、周りがことごとく貧しいと、自分の貧しさを意識することがない。ゲーム機も携帯電話も無論存在せず、遊び道具といえば、せいぜいが榛っきれとゴムボールくらいのもので、それらを想像力豊かに用いながら、私たちは、路地から路地を跳びはねるようにして遊んだ。
 オート三輪自動車。汲み取り式便所。木の電信柱。駄菓子屋。紙芝居。飴細工。そろばん塾。石炭ストーブ。肝油。チャンバラ。白黒テレビ。
 家の前を小川が流れ、すぐ近くには広々とした野原があった。野原には大きな土管が転がり、そこを秘密基地にして、私たちは地球防衛軍を名乗ったりしていた。
 いま、おもいかえしてみても、貧しかったという記憶はまったくない。しょっちゅう、お腹を空かせ、しょっちゅう、切り傷や擦り傷をこしらえていたが、なにしろ元気だった。父親には「男は手に職をつけなければならない」と言われ、祖母には「もったいないことをしてはなりません」と言われ続けたが、「勉強しろ」とは金輪際言われたことがなかった。
 なにもないというのは、なにもかもがあるということよりもむしろ幸福な状態なのかもしれない。ゲーム機も携帯電話もカラーテレビも自家用車も無かったが、その頃の私たちには、世界を想像する力と、喜びを創造する力があった。

 
 中軽井沢の交差点を左に折れ、三井の森の案内看板を右に折れると、すぐそこが『星のや 軽井沢』のレセプションである。ゲストはここで受付を済ませ、スタッフが運転する車で用意の部屋に案内されることになる。
 車を、レセプションのエントランス脇に停めると、傘を手にした若い女性スタッフが足早に出迎えてくれた。背筋がきれいに伸びていて、顎から首にかけてのラインがことのほか美しい。トシをとったせいもあって、滅多なことでは女性に心をときめかせたりはしないが、彼女の物腰・佇まいには、日本女性に固有の品格が感じられて、ふっと心がさわいだ。話し方も実に静かで、声に無駄な抑揚がない。スタッフがここまでのレベルにあるのであれば、宿にはさらに期待が持てようというものである。

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 星野温泉の誕生は100年前に遡る。
 製糸業、製材業などを手広く営んでいた2代目星野嘉助が、この地の温泉と豊かな緑という自然の恵みに着目して、大正3年(1914)、神社風の浴場を建てるとともに温泉宿をひらいたのが始まりである。100年のときを経て、当代星野佳路が湯川に沿った谷あいに、あるべき日本の姿を具現化しようという大胆な試みに足を踏み出したのは10年前のことである。
 その「谷の計画」が、どれほどのスケールで実現したかを知るには、まず、ここに来て、自分の目で実際に見るしかない。パンフレットや雑誌記事やテレビ番組であらかじめ多少の知識を得たとしても、そんなものでは何もわからないにひとしい。谷の形状を巧みにとりいれた集落全体の眺望や各客室の洗練の極みともいうべき造りにも驚かされるが、ここには、こんにちの日本が失った自然の息遣いがふんだんにあふれでいる。路地、曲がり角、林、森、段差、水辺、それに暗がり…。
 曲がり角の向こうと、暗がりの底に何があるかは誰にもわからない。曲がり角と暗がりは、いわば永遠につながる道なのだ。『星のや』の曲がり角を曲がり、『星のや』の豊饒な暗がりに足をそろそろと出す時、不意と、私たちの時間は本来もっとゆっくりとしているものなのだということに気づかされる。
 カラマツ林が雨にけぶっている。春はもうとうに来ているというのに、どの木も、寒さに打ち震えているような様子をしている。池には雨の波紋がいくつもできていて、池の向こうには低い山々がかさなっている。
 人の気配がほとんどしない。雨の音だけが、ふつふつと耳を打つ。
 周りの風景はすべて雨色に染まり、日常のことどもが次第次第に遠のいていく。雨を見つめながら、雨の中を歩いてみる。すると、まるで自分自身までもが雨の中に溶け込んでいくようで、悲しいことや辛いことといった余計なものがやわらかく拭き取られていくのを感じる。

 
 部屋にはテレビもなく、頼まなければ新聞が届けられることもない。最初はややとまどったが、やがて悟った。ここではここの暮らし方をするほかないのだ。それが『星のや』の狙いであり、願いなのだ。たとえば、私は『星のや』に逗留したわずかの間に、枯れた葉に落ちる雨と若い葉に落ちる雨は、立てる音がまるで違うということを知ったが、それが自然を理解するということなのだ。

 堀辰雄の「美しい村」に、

 どこへ行っても野薔薇がまだ小さな硬い白い蕾をつけています。
 それの咲くのが待ち遠しくてなりません(略)。

 どうぞ、都会にいたたまれないでこんな田舎暮らしをするようなことになっている僕を
 不幸だとばかりお考えなさらないで下さい。


 という、軽井沢のたたずまいに歓びと平安を全身で感じているかのような一節がある。まさに『星のや』こそは、野鳥の森と星野の丘に挟まれた谷の底に出現した、この国でもっとも美しい集落なのであった。

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 温泉には、6回、入った。

 「トンボの湯」の広大な露天風呂も素晴らしいものだったが、ゲストしか利用できない「メディテイションバス」の闇の湯にはいっそう大きな感動を覚えた。手と足先で湯を探りながら、光の湯から闇の湯へと入っていく時、誰しもすこしく恐れを感じるにちがいないが、こういう湯はまったくほかにない。それはまるで善通寺で体感した胎内めぐりのようで、ここでは湯に半身をひたしているぶん、なお自分のあるべき在り処に近づいていっているような錯覚を覚えるのだ。

 1日目、私は本を読んだ。
 2日目、私は本を読み、雨音に耳をすませた。
 3日目、私は本を読み、濡れた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 そうした時間がどれほどまでに大切でいとおしいものであったかをわかってもらうことは難しい。
 いつもであれば、パソコンで打つ原稿を、原稿用紙の桝目にひと字ずつベンで書き記すことにしたのも、『星のや』の時間のせいである。
 また来よう。私はひとり肯首し、最後に、何度も何度も谷を振り返った。

長野 軽井沢 星のや軽井沢
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筆者プロフィール

林俊介

編集者を経て、各種雑誌・新聞にコラム、エッセイを連載。
元TOKIO STYLE編集長。「ホテルに泊まるといふこと」など著書多数。

星のや 軽井沢

客室数
77室
宿泊料金
2泊56,000円~(1室2名利用時の1名2泊料金/食事別、税込み)
※2泊からの予約が基本になります。詳細はHPをご参照ください。
チェックイン/アウト
15:00/12:00
駐車場
78台
施設
日本料理「嘉助」、「星のやスパ」、メディテイションバス、ライブラリーラウンジ、キッズルーム、フレンチレストラン「ブレストンコート ユカワタン」(ホテルブレストンコート内)、「森のいきもの案内人 ピッキオ」ほか
※24時間利用できるルームサービスあり
風呂
大浴場「星野温泉 トンボの湯」
交通
JR軽井沢駅より無料シャトルバスにて約15分。
上信越自動車道碓氷・軽井沢ICより20分。
※掲載されている情報は、時間の経過により実際と異なる場合があります。(更新日:2014年6月20日)
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