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ホテルに泊まるといふこと

林俊介がホテルの真髄に迫る極上のエッセイ。

第2回

石川 山代温泉べにや無何有

著者/林俊介(2006年9月筆) 撮影/桝野正博

 山本周五郎に「茶摘は八十八夜から始まる」という短編がある。行状がかんばしくなく、領地没収の上、他家に預けられた元6万石の領主が、いよいよ切腹、毒害のいずれかの措置をとられるほかあるまいという際になって、相伴役の若いさむらいの必死の諫止に、ようやくそれまでの過ちに気づく。さむらいはそのことを上役に報告し、結果、明日は罪が減じられるという日になって、元領主はこう言うのだ、
「おれは今夜自決する。・・・・・・この四十日ほどのあいだ、おれはずいぶん多くのことを学んだ。これまで経験したことのないことを経験し、経験をしたこと以上に多くのことを学んだ。この四十日ほどのあいだに見聞したことは、おれ自身の過去、おれがどんな人間だったかということを、はっきりとあぶりだしてみせたのだ。おれは領主としてはもちろん、単に人間としても屑にも劣る」
「いや、聞いてくれ。自決すると決めたいまほど、平安な気持ちになったことはおれにはなかった。この四十余日のあいだに、おれは人間の生き方を知った。それで充分だ。おれは胆がきまったのだ。これ以上生き延びてはならない。そうあってはならない。五十余年にわたる罪の償いはできなくとも、死にどきだけは誤りたくない」

 
石川 山代温泉べにや無何有
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 私はこの正月で60歳になった。
 なにをするべきか、ということよりも、なにをしてはならないのか、ということについて、もはや十分に学んだはずである。あれを捨て、これを捨て、身辺ことごとくをきれいに片付け、未練がましいことはいっさい口にするべきではないということを、十二分に心得ているはずである。
 それなのに、である。

 温泉、と聞いて、またぞろ、うーん、それはいい、と胸の内がざわめいたのは、どういうわけであろう。
 かくて私はこう考えたのである。死ぬまでは生きる。はっきりとやめようと決意が固まるまではやり続ける。性格はおいそれと変わらない。今更、悩んで、迷って、もがいて、あがくことを恐れたところで詮の無いことなのだと。
 山代温泉『べにや無何有』には幾度も行ったことがある。仕事柄、温泉旅館は数多く知っているが、湯と料理としつらいに関して、無何有を上回るところは、なかなかに無い。大浴場に隣接する露天風呂の情緒も格別のものだし、部屋に備え付けの露天風呂も全室天然温泉が引き込まれていて、実にのんびり、ほっこりと温まることができる。名物の鴨のつみれ鍋、夏の涼やかな料理、春と秋の、目にもたおやかな料理もここ以外では味わえないご馳走である。
 無何有とは、荘子の好んだ言葉で、字句どおり、何もないこと、無為であることを言うそうだが、何もない、というのは、いわば究極の豊かさであるといってもよい。ひととき日常を離れ、何もない空間の中に満ち満ちている、真の豊かさを味わってもらいたいということなのであろう。

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 さて、某日、私の体は無何有に在った。

 ここでは私は何もしない。本を読んだり読まなかったり、なにやら考え事をしたり、うつらうつらしたり。湯でぼんやりとした頭を時々振りながら、所在なげに、手と足を伸ばしている。
 所在ない。これは、いまだ仕事に忙殺される日々をおくっている私にはありがたい心地である。
 宿に着いて最初はやや退屈におもうが、退屈さに慣れると、風のそよぎや、樹木の香りに気づくようになる。館内や部屋に用いられる色もごくシンプルなものに抑えられており、建築家竹山聖が意図した世界が見事に表現されている。
 ごろりと寝転ぶか、湯に入るか。
 誰の声も聞こえず、誰からも話しかけられず、見えてくるものといえば、自分の傷口くらいのものである。
 なんの本であったか。「傷口が古くなったからといって、悲しみまでもが古くなるとは限らない」という印象的な一節があったが、私が見つめているものも、傷口であるというよりは、もっと底深い悲しみなのであろう。それが見えてくるというだけでも、無何有はたいした宿だ。

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 普段、私は朝食を摂らない。牛乳とミルクティーをブレンドしたものを大きめのコップで一杯。それだけである。

 だが、無何有では、私は朝食をなによりもの楽しみにしている。
 多行にわたるが、次に記す。

 一、おめざめフレッシュジュース
 一、牛乳 平松牧場加賀分校
 一、温泉カレイ ほおばみそ
 一、釣り鱈子
 一、だし巻き玉子 大根おろし
 一、きのこ海苔
 一、おひたし
 一、土鍋ごはん 加賀中津原産コシヒカリ自家精米
 一、あげ焼き しょうがねぎ
 一、焼海苔 丸大豆しょうゆ
 一、ちりめん山椒
 一、天日干し しそ
 一、サラダ
 一、味噌汁 梅ぼし こんぶ
 一、加賀棒茶 動橋 丸八製茶
 一、コーヒー

 それなりの量であるが、胃の中にすとんとおさまって、しかも、やさしい。腹も口元も次第次第にほころんでくるような、自然の美味しさに満ちた朝食である。

 箸を置き、手を合わせてごちそうさまと言った。
 覚悟はすでに定まっている。
 それまで、私はもうすこし生きたほうがよい。

石川 山代温泉べにや無何有
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筆者プロフィール

林俊介

編集者を経て、各種雑誌・新聞にコラム、エッセイを連載。
元TOKIO STYLE編集長。「ホテルに泊まるといふこと」など著書多数。

べにや無何有

客室数
和室8室、洋室2室、和洋室6室、特別室 若紫1室。すべての部屋に露天風呂付。
宿泊料金
平日34,710円より、休前日40,110円より(2名1室利用/税・サ込)
チェックイン/アウト
15:00/11:00
駐車場
15台
施設
図書室、カフェ、茶室永楽庵、ショップ、スパ「円庭施術院」
風呂
大浴場「こもれびの湯」
交通
飛行機の場合、小松空港よりタクシーで30分。
鉄道の場合、加賀温泉駅よりタクシーで10分、バスで15分。
送迎あり 要予約
車の場合、北陸自動車道加賀IC・片山津ICより20分。
※掲載されている情報は、時間の経過により実際と異なる場合があります。(更新日:2014年5月23日)

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